U-----s blog

小学校の先生です。特別支援学級で子どもたちと楽しく過ごしています。日々感じたことを綴っています。通常学級の経験もあり

学校の「当たり前」をやめた②

フォレスタネットさんからのキャンペーンで
学校の「当たり前」をやめた。
に当選した。
本との縁を作っていただき、感謝である。
この本は、5章にわかれて書かれている。
各章を読み終えたあとで、その章について書いていこうと思う。

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第2章「手段の目的化」
この章では、第1章の内容について、深く掘り下げている。
手段=目的となっていないかということが大きなテーマである。

「学校の目的とは何か」
誰もが一度は考えたことがあるのではないだろうか。
私も何度か考えたことがある。
しかし、経験も知識も乏しい私には、「これだ!!!」というものが出てこなかった。
では何のためにあるのだろうか。
本書では
「目の前の子どもたちが社会の中でよりよく生きていくために必要なことを教えるため」
と書かれている。
学習や集団生活も教える場ではあるが、本来の目的はここでなければならない。
心の中でもやもやしていたものが一気にはれた。
しかし、社会で必要な力は、学校という場でなくても学ぶことができる。
「学校」
これも、手段の1つにしかすぎない。
子どもたちが社会を生きていくために必要なことを学ぶ場は1つではないのである。


現代は、ネット環境さえあれば、家にいても十分学ぶことができる。
学校が手段の1つにしかすぎないのは納得である。
以前、『不登校は不幸じゃない』というイベントに参加したとき
「学校は、子どもを学校に来させることしか考えていない。家に来られても、そう簡単に子どもは学校に行こうとは思わないし、子どもも私もプレッシャーを感じる。近所の人からの目も気になるから、そっとしてほしいときもある。」
と参加された方がお話されていた。
熱心に対応していることが、逆に苦しさを与えてしまうこともあるのである。
不登校の子どもや家庭に対して
「学校にまた来れるようになること」が目的となってはいけない。
子どもがよりよく生きるために、何が重要かを考えることが大切であるなと感じた。
いくつかの選択肢を与え、生き方や学び方を自分で選ぶことができる
そういう対応の仕方がよりよく生きることにつながるのではないだろうか。

当たり前は当たり前ではない。
最上位の目的を明確にし、「何のために?」と考える癖をつけたいものである。

 

本日も最後まで読んでいただきありがとうございます。