U-----s blog

小学校の先生です。特別支援学級で子どもたちと楽しく過ごしています。日々感じたことを綴っています。通常学級の経験もあり

教室マルトリートメント4

第4章 教室マルトリートメントを防ぐ

 

この章では,タイトルの通り

教室マルトリートメントを防ぐためにはどうしたらいいのかについて書かれていた。

 

まず,校内研究について書かれていた。

あー、なるほどなと思ったのは

研究とは、そもそも対象となる子どもをより深く理解するため、あるいは教師による教授行動をより高めるために行われるものであって、「相手を変える」ために行われるものではない。

というところだ。

初任の頃から

校内研究はなんのためにやっているのか

やる必要があるのか

本当にやるべき内容なのかと

ずっと思っていた。

校内研究のタイトルだけ一丁前でただの負担でしかない。

子どもを深く理解するために行われていたかというと

学力テストの結果を分析して傾向と対策を考えただけ。

教授行動を高めることができたかというと

大きな変革はなく本当に小さなものだった。

それが積み重なればいいのだがその実感は正直周りを見てもない。

見栄えだけを気にした必要なものとのずれのあるものだなと思っていた。

いっそのこと一度廃止してみて

学校現場に余裕ができてから取り組んでもいいのではないかとすら思う。

やりたい人は何も言わなくてもやる。

それでいいのではないだろうか。

 

また

「ゴールは成功以外にあり得ない」という考え方そのものが、教育という仕事の醍醐味を一気に失わせていく。

というのもなるほどと思った。

これだけ経験や知識に差があり

クラスや仕事内容も違うのに

失敗は許されないのはチャレンジしようという気持ちがなくなってしまう。

志高く教員になった人が

経験のある人たちから取り組みや実践を否定されたり

足並みが揃わないからとそもそも実践させてもらえなかったりしたら

成り手が減るのもブラックだと言われるのも仕方ない。

子どもたちも同じである。

集団行動の中で生活面でも学習面でも正解を求められる。

子どもだからこそたくさん失敗できて、そこから学び、成長できると思うのだが…

学校が教師も子どもたちも

安全に失敗ができ、何度もリトライすることを応援する場になってほしいし

そういう教室を作りたいなと思った。

 

さらに、心に残ったところが二つある。

教師には、「自分の都合」「自分の基準」「自分の判定」を絶対視せず、その枠を超えてくる子どもの登場や、型にはまらないエピソードが生まれることを喜んで迎え入れる姿勢が常に求められる。

「どうするか」という手立てばかりではなく、「どうあるか」という普段の在り方が大切

この二つだ。

教室には、みんなが安全に過ごすためにルールや規律、学級目標がある。

子どもたちと決めることがほとんどだが

そこには教師の思いや教師が思い描く理想の姿が反映されていることが多い。

そして、そのルールや規律、学級目標が外れると叱られたり指導されたりする。

この判定をするのは、子どもではなく大人である教師だ。

教室では、教師=担任という立場は一番高い。

だからこそ、自分こそが正しいと勘違いしてしまうことが少なからずある。

また、教師なら誰でもその状態に陥る可能性がある。

だからこそ、普段の在り方が大事になってくると思っている。

子どもたちとかかわるときの態度や言葉遣い、物の扱い方、机の周りの状態など

子どもたちは、教師のことを本当によくみている。

実に細かいところまで見ているのだ。

信頼できる人から言われれば、素直に聞き入れることができるが

少しでも何か変だなと思うところがある教師から言われるとそうはいかない。

親に言って、ちょっとどういうことですかとなってしまうのが今の時代だ。

子どもたちに好かれたいからではなく

子どもたちがよりよく成長できるためにベターな方法で関わるために必要だと感じた。

そのためにも

いろいろな経験をして、物を見て、心と体を健康に

余裕を常にもてるようにしたいと思った。

 

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

 

今日は、なんだか長くなってしまいました。

夏休みで人と話す機会が減った分

こういうところで出てしまったのかもしれません笑

教室マルトリートメント3

第3章 圧は連鎖する

 

この章では,教師が作り出している空気感について書かれていた。

教室の中での舵を切るのは教師の大きな役割である。

教師がどのような雰囲気をしているか

どのようなかかわりや指導をしているかで

教室の空気感はガラッと変わる。

担任ガチャという言葉が生まれたように

1年間同じ時を過ごす子どもたちにとって

クラスメイトと同じくらい

もしくはそれ以上に教師という存在は大きい。

担任次第でクラスが変わってしまうからだ。

 

この章の中で,特に気になったのは『こじらせ教師』というところだ。

こじらせ教師とは

経験や実績,信念などのこれまでの積み上げてきたものから

自分の主張こそが正しいと思い込んでいる圧の強い教師のことである。

色々な特徴や個性,強みを持つ教師がいて

それぞれに良さがあるのだが

それを良しとできないのである。

高圧的な指導をする教師が

自分は指導力があると勘違いしてしまうのである。

子どもたちは恐怖心から静かにしているだけで

今は静かにする場面だからとか

静かにしたほうが話がよく聞けるなとかを考えて

主体的に静かにしている訳ではない。

それを指導力があるからできていると勘違いしているのである。

私自身も

背が高くて,体が大きくて,声が大きくて,男なので

知らず知らずのうちに子どもたちが圧を感じているかもしれない。

そのことを忘れずに

子どもたちにかかわったり指導したりしなければならないと思った。

また,他の教師から何か助言をされたときに

「自分なりのやり方がありますから。」

「自分には自分のやり方がありますから。」

という言い方をする教師は,危険だということもわかった。

この言い方からわかることは

自分の指導以外を認めようとしないということである。

教室の独裁者という言葉が使われていた。

いろいろな人の意見を聞き

その中からベターな選択ができるように

柔軟に物事を考えられるようにしたい。

 

 

本日も最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

 

夏休みも残りわずかです。

少しずつ気分が重くなります…

 

 

 

教室マルトリートメント2

今日は第2章について。

 

第2章『教師が子どもを傷つける』

タイトルだけでちょっと読むのがためらわれるが,勇気を出して読んだ。

この章では,罰や脅し,ネガティブな声かけがどのような影響を与えるのかについて書かれていた。

罰や脅しは,子どもたちを恐怖で縛り付け,トラウマにつながってしまう。

それがあまりにも強烈な記憶として残るとPTSDとなり,フラッシュバックすることになる。

目には見えないが,大きな大きな心の傷になってしまう。

子どものためと思って

『しつけ』,『指導』

をしていると思っても

それを子どもがそう感じとっていなかったら虐待になってしまうのである。

やっている当人は『しつけ』や『指導』をしていて

『虐待』をしているという認識がないから本当に怖い問題である。

限定された世界,関係だからこそ難しい問題であると感じたし

自分自身,子どもとの関わり方で気をつけなければとも思った。

 

また,この章の中で,強く印象に残っているところがある。

ある生徒が小学校時代のことをフラッシュバックしたときに書き出したものである。

そこには

部屋に閉じ込められた回数 94回

外に出された数 15回

怒られた数 219861回

など,自分が受けた指導についての回数が書かれていた。

実際の数とは異なるだろうが

これほどまでに強烈に記憶の中に残り

その生徒を苦しめていたと思うとなんとも言えない気持ちになる。

子どもが成長する時期に長い時間かかわるのが教師だ。

教師がどのようなかかわりをするかで,子どもの成長は大きく変わってしまう。

そのことを自覚して

日々子どもたちと向き合い,教えていかなければならないなと強く思うところであった。

 

読んでいて,胸が苦しくなる章であった。

と同時に身が引き締まる章でもあった。

子どものためはわかるが

自分がした指導について,しっかりと振り返る必要があると感じたし

これはまずいなと思ったときには

大人であってもきちんと謝ることが大事だし必要だと感じた。

 

 

本日も最後まで読んでいただきありがとうございました。